雨森 信(あめのもり のぶ)

Breaker Project ディレクター|成安造形大学 客員准教授|大阪市立大学都市研究プラザ 特別研究員

京都市立芸術大学美術学部卒業、設計事務所、ギャラリー勤務を経て、フリーランスのキュレーターとして活動。2003年より「Breaker Project」を企画、長期に渡る地域密着型のアートプロジェクトを手がける。ほかに「水都大阪2009」「BEPPU PROJECT2010」「札幌国際芸術祭2017」など、さまざまな現場において、独自の表現活動を開拓するアーティストとともに、新たな表現領域を探求。地域に根ざしたアートの実践を通して、現代における「芸術と社会の有効な関係」と、アートマネジメントの役割について研究する。


自分の生き方は自分でつくる

 

現代美術に出会って、人生観が180度変わる

——雨森さんがアートプロジェクトに関わるようになったきっかけについて、教えていただけますか?

芸大出身で、もともとつくる側だったんです。学生時代、つくることは楽しかったんですが、現代美術と社会の接点がないことに疑問を感じるようになり…。現代アートもアーティストも、社会のなかで認知されていない状況に違和感を持ち始めたんです。社会の側に目を向けると、経済ばかりが重視される時代、価値観も均一化されていくなか、ひとり一人の個性や創造性がどんどん縮小されていく印象もあり、これでいいのかな、と。

 

——現代アートの置かれた状況に、疑問や違和感を抱いておられたんですね。

そうですね。なので卒業後は、設計事務所に就職したんです。建築だと社会と関わりながら仕事ができるかなと思って就職したんですが、建築の仕事はクライアントありきな部分が大きくて。社会というよりクライアントの価値観でしか、物事が進まない。特に賃貸マンションの設計が多かったので、無難なものばかり求められました。いろいろなタイルや床材なんかを取り寄せるんですが、例えば、原色の真っ赤なタイルなど綺麗な色のタイルはどんどん廃盤になっていく……。また違和感というか、疑問が湧いてくるわけです。

 

—無難なものだけが残っていくことへの違和感でしょうか?

売り手の論理で全てのことが効率化されていくことへの違和感ですかね。選択肢がどんどん減っていって、無難なものを選ばざるを得ないというのは、私自身耐えられないなと。「普通」とか「常識」という言葉への反発もありました。みんながこうだからという理由で、好きでもないけど無難なものを選ぶようになってしまうと、面白みがないというか。敷かれたレールの上を生きていくのではなくて、もっとそれぞれが好きなように生きていける社会になったほうが、私自身が楽しく生きられるな、と思ったんです。

 

——社会のためのというよりは、自分ごとから発生しているんですね。

私自身が現代美術に出会って、人生観が180度変わったという経験が今の活動の原点ですね。それまでは大学に入って、卒業したら就職して、結婚して……って、人生ってそんな感じかなとぼんやり考えていた。というか、ほかの選択肢があるのを知らなかったんですよね。だから芸大に行って、自分で自分の生き方をつくっていけるということに気付けたのは、本当に大きかったと思います。

 

——現代アートに出会ったきっかけというのは?

大学受験のときですね。芸大を受けることになって、受験する大学の卒業制作展に足を運んで初めて現代美術に出会いました。芸大に入学すると、まわりには既存の価値観や常識にとらわれずに生きている人がたくさんいて、そこに刺激を受けて、自分の価値観も変わり、どんどん解放されていったように思います。

 

「社会のためのアートということではなく、社会とアートをつなげば何かが変わるんじゃないか、と思ったのがきっかけです」と雨森さん。

 

「社会」を意識しているアーティストが増えているこの頃。

——設計事務所を退職されたあとは、どのような活動をされていたんですか?

まずは社会とアートをつなぐことが重要だと思って。でもいきなりフリーランスで生きていけるわけではないので、アルバイトをしながら展覧会を企画したり、アートスペース虹というギャラリーでも3年ほど仕事をしました。90年代中頃に、京都の高瀬川で行われている桜祭りに合わせて、作品の展示やパフォーマンスを企画する機会があったのですが、その時に通りがかりの人の反応が面白かったんですよ。ふだんは美術館に足を運んだり、ギャラリーに行ったりしないような人たちも、足を止めて見てくれる。パフォーマンスをしていたアーティストに「あんた天才やな!」って声を掛けてくれる人もいて。現代美術はよくわからない、敷居が高いと言われがちですが、アートの文脈を知らなくてもや知識がなくても、伝わるものがあるんだということを実感しました。その時に、社会とアートをつないでいくためには、自分たちからまちに出る必要があると確信したんです。まちに出ることで、いろんな出会いがある、そこに面白味を感じたことが、ブレーカープロジェクトにつながっています。

 

——アーティスト自身は、社会との関わりについてどのように感じていたのでしょうか?

90年代中頃ごろから少しずつ、社会と関わりながら活動や制作を行うアーティストが私の周りにも出てきました。アーティストは基本的に「社会ありき」というよりも、まずは個人的なことが表現の出発点になっていると思うのですが、そのアーティストも生活しているなかで社会の影響を受けているのは言うまでもありません。アートの領域から少し外の世界に出てみることで、社会のしくみに興味を持つようになったり、身近なところで起こっている緊急の社会課題に対してアクションを起こすようになったり、そこで自分が何をすべきか、何ができるのかを考えるようになる。

現在は、アートプロジェクトや芸術祭がこれだけ増えているので、アーティストが地域社会のなかで作品を制作することや参加型のワークショップなどがあたりまえのようになってきているけれど、その当時は、そういう場自体を自らつくっていくから始まっているので、もっと社会に関わる必然性のようなものがアーティストの中にあったように思います。

 

——では徐々に、「社会のためのアート」を実践しているアーティストが増えているんですね。

社会のためのアートという言い方は少し違うかなと思います。社会のためというよりは、社会とのリアルな関わりを必要とする、もしくはそこに面白みを感じるアーティストが増えてきたということかと。社会のためというのは、あくまでも結果としてであって…。ブレーカープロジェクトでも、アーティストが地域のなかで時間をかけて新しい表現活動に取り組む環境を整えること、そしてそのプロセスを地域と共有していくことで関わりを生み出していくことを目的にしています。

 

——「社会のため」第一の目的ではない、ということでしょうか。

そうですね。アーティストが生きている中で、社会に対する問題意識とか、憤りをとか、何か変えていかなければいけないという想いはあると思います。ですが社会や地域のために何か具体的に役に立つような作品をつくるということはほとんどないのではないでしょうか。予算があってもなくても、まずは、その言葉にならない「何か」を表現せずにはいられないというのがアーティストであって。公共空間に設置されるパブリックアートのようなケースを除いて、アーティストの自発的な表現活動であったり作品を生み出していくという営みは、クライアントから発注があってその予算に応じてものを作っていくということではないんです。

ブレーカープロジェクトの創造活動拠点のひとつである「新・福寿荘」は、西成区山王にある築60年の木造アパート。一室はアーティストユニット・パラモデルが制作を行った「レジデンス・パラ陽ケ丘」は、毎年春と秋に1日1組限定で公開する滞在型作品。

 

まちは長い時間をかけて、住む人によって作られていく。

——ブレーカープロジェクトは発足から15年ですが、長くプロジェクトを続けていると、目標を見失ったり、進むべき道を迷ったり……ということはありませんか?

すごく遠い未来を見ているというか……すぐに結果が出るものではないという意識でやっていて。
まちづくりとか地域活性化とか最近よく言われていますが、まちはそこに住んでいる人たちによって、半ば無意識につくられていく部分が大きいと思うんです。大きな開発が入るとなるとまた別の話になりますけど。高齢化して世代交代があったり、建物が老朽化して建て替えられたり、常に変化している。そういった流れの中で、一人ひとりがどういう選択をしていくのか。その暮らしのすぐ側にアートが在り続けることで、住んでいる人に何かしらの変化があり、そこからまちへの影響があるのではないか。そこが一番興味のあるところです。

 

——まちが作られていく過程にアートがあることで、そんな影響が起きるか、ということですか?

仮説ですけど…何か影響があるはずだという確信が私の中にはあります。だから続けている。目的を見失いそうになったら戻れる場所というか、プロジェクトの軸ですね。ただ、明確な理想の未来に向けたプランを先に決めてしまうのではなく、遠い漠然とした未来を見据えながら、活動の中で出会っていく人や場所であったり、その時々の状況によって次の一手を考え進んでいく。分かりにくいし、遠回りだと思われることもあるかもしれませんが、まちの未来をつくっていくのは、そこに住んでいる人たちですし、私たちが答えを持っているわけでもない。実践を通して考えながらですね。また地域で活動していくことは、面倒なことも大変なこともありますが、実はそれがまっとうというか、健全だとも思います。そういったことも含めて面白がれるというのも続けていけるポイントかもしれません。

 

——だからこそ、地域に根ざすというか、地域を舞台に活動をされているんですね。

もともと「地域」ということを強く意識していたわけではないんですが、実際にまちに出て活動をするうちに、いわゆる「社会」という言い方は、すごく抽象的だなと思うようになって。結局は活動する地域、つまり自分たちのいる場所が社会であり、世界とも繋がっていると。戦争とか経済格差とか挙げればきりがないほど現代社会の問題は山積みですし、一人の力ではどうにもならないことだらけですけど、だからこそ、自分のいる場所から状況を変えていけるといいなと。

地域の場として定着しつつある、元タンス店を改装した「Kioku手芸館たんす」。2016年11月からは美術家・西尾美也を迎え、地域の人と共にファッションブランド「NISINARI YOSHIO」を立ち上げる新たなプロジェクトがスタートしている。

 

10年なんて一瞬、地域が変わるにはもっと時間が必要。

——これからはどんな活動を展開されていくのでしょうか?

創造活動拠点の一つ、旧今宮小学校を活用したプロジェクト、「作業場」づくりの活動や新福寿荘のアーティスト・イン・レジデンスの取り組みは継続していく予定です。特に2017年は、西成区の広範囲でリサーチをしているので、新たなつながりも作れましたし、今後、そのネットワークを活かしたプロジェクトができればと。この場所(Kioku手芸館「たんす」)は2012年から活動しているのですが、地域の女性たちの居場所にもなってきているし、地域の人が必要と思ってくれているなら、地域で運営していく方法もあるのかな、と次年度以降は新たな展開を考えています。

 

——実験の場所から、地域の場所へと変化していくのですね。

実験的なアートプロジェクトは芸術文化振興の範疇ですが、そこから地域の場所として継続していくのは、単年度事業で組まざるを得ない文化事業とは少し意味合いが変わってくるのかなと。大阪市の文化事業として実施されたプロジェクトの中で生まれたスペースですが、今後は地域にとって必要な場として運営していくために、地域の町会や活動とどう連携していくのか、どのように予算を獲得し運営基盤を構築していくのか、新たに継続の道を探っていきたいと考えています。

 

——ひとつの地域に根を下ろした継続的なアートプロジェクトは大阪では珍しいと思うので、ブレーカープロジェクトの未来も非常に楽しみです。

始めた当初は最低でも10年と思っていたんですが、10年なんてあっという間でした。10年を経て地域にとってどんな成果があったかというと、本当にささやかなものなんです。

関わった人たちのアートに対する意識の変化だったり、これまでつながりのなかった同じ地域の人同士が出会う場がとなっていたり、暮らしの中の小さな変化だったり。同じエリアで続けていくと面白がってくれて協力してくれたり参加する人が少しずつ増えていく。ネットワークも広がっていくので活動もどんどんやりやすくなっていくといったようなことで、数値化できる分かりやすい成果ではありません。アートが社会にどのようなインパクトを与え得るのか、という問いの答えが目に見えて分かるようになるには、30年もしくは100年くらいはかかるんじゃないかと。こういった小さな積み重ねを続けた先に、このまちがどうなっているのか、継続しないとその結果は見られないわけですから、これからも続けていきたいですね。

 

——これからの大阪市の文化振興について、期待されることはありますか?

アートの持つ力を社会のために活かしていくという施策がありますが、地域の課題は簡単に解決できるものではないし、アートはそもそも課題解決を第一の目的とするものでも特効薬でもありません。もちろんそのきっかけとなることは間違いないのですが、アーティストが新しい表現活動に挑戦したり、その中で切磋琢磨できる環境やそれらを支えるマネジメントの人材、プロデューサーなどが活動していけるインフラを整えていくことが大阪市のめざす将来像「文化自由都市」に向けた大きな課題ではないでしょうか。また文化を支援する側/支援される側ということではなく、大阪の文化を担っていくパートナーとして、現場のプレーヤーと行政が協働できるようになるといいですね。

現在は西成区内で3つの創造活動拠点を展開しているブレーカープロジェクト。「こういったものづくりの場が地域にとってなくてはならない場所になり、ゆくゆくは小さな公共の場として各地に広がっていけば」。