上田假奈代(うえだ かなよ)

詩人、詩業家、NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)代表。
1969年奈良県吉野生まれ。3歳より詩作、17歳から朗読をはじめる。92年から詩のワークショップを手がける。2001年「詩業家宣言」を行い、さまざまなワークショップメソッドを開発し、全国で活動。03年新世界フェスティバルゲートで、ココルームをたちあげ「表現と自律と仕事と社会」をテーマに社会と表現の関わりをさぐる。08年から西成区通称・釜ヶ崎で「インフォショップ・カフェ ココルーム」を開き、喫茶店のふりをし、09年向かいに「カマン!メディアセンター」開設。「ヨコハマトリエンナーレ2014」に釜ヶ崎芸術大学として参加。16年春、地域の人たちと旅人とのであいをつむぎたいと考え、同商店街で30数ベッドの「ゲストハウスとカフェと庭 ココルーム」を開く。詩写真集「うた」(WALL)、「こころのたねとして~記憶と社会をつなぐアートプロジェクト」(ココルーム文庫)、「釜ヶ崎で表現の場をつくる喫茶店、ココルーム」(フィルムアート社)、朗読CD「詠唱!日本国憲法」「あなたの上にも同じ空が」他。(一社)2012年度 朝日新聞関西スクエア大賞。2014年度 文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞。

 

自分の仕事を作りたくて、いつの間にか社会に関わる。


自分の中の命の存在に気付かせるのが詩人の仕事。

—−假奈代さんは日雇い労働者や路上生活者が多いまち・西成区の通称釜ヶ崎で「ココルーム」を運営しておられますが、假奈代さんが活動をはじめるきっかけや、ココルームを開くまでの経緯について、教えてください。

すごく身勝手なきっかけ。私は、詩人を仕事にするという自己中心的な妄想が始まりです。詩人を仕事にしようと思ったのは、端的に言うと、自分は生き残ったと思っているんです。大げさな言葉ですけど、多感すぎて、生きるのも下手で。お友達も自殺しているんですが、それが私でもおかしくなかった。
特に印象的だったのが、20代後半に出会った青年です。彼は「假奈代さん、僕、詩を仕事にしたいんです」と言ったんです。それを聞いて私は、何も答えられませんでした。そんなこと無理に決まっているから。その彼は、私と話した一週間後に命を絶ってしまいました。私はあのときなぜ、「大変やけどがんばりや」と言わなかったのかと、とても後悔しました。

 

—−なぜ、詩を仕事にするのは無理に決まっている、と思っておられたのですか?

私の母も詩人なのですが、母から詩を仕事にするなと言われてきました。詩では食べていけないから。詩は自分の生活を豊かにしてくれるものにしておいたほうが良いと。でも彼のこともあって、詩の仕事ってなんだろうと考えました。
誰でも絶望的な気分になって、「自分がこのまま息をしなくなっても、明日は太陽が昇ってみんな普通に生きていく」と思うことはあります。でもそんな時に、自分の命が自分のなかにちゃんとあることに気付けるような働きかけをするのが詩人の仕事ではないのか、そのための言葉や態度をもって生きていくことが詩人の仕事だと思い至りました。そして、収入を得るための仕事を別にするのではなく、24時間集中して取り組みたい、と思うようになりました。それで誰にも頼まれてもないのに、詩業家宣言をしたんです。

 

—−詩を生業にして生きていく、という覚悟を決められたわけですね。

詩業家宣言をした翌年、大阪市から新世界にある複合商業施設「フェスティバルゲート」に入居しないかと声がかかり、2003年4月から入居しました。当時のフェスティバルゲートは「新世界アーツーパーク事業」と言って、音楽、ダンス、映像、文学という4ジャンルのNPO が入って、世界中からいろいろな人が出入りしていたんです。
家賃と光熱費は行政の負担で、運営費は自腹でした。でも税金を使うわけですから、私の仕事を作るだけというわけにはいかないと思ったんです。それで、喫茶店をすることにしました。
二つのことをまず考えました。誰でも立ち寄れる場所にすることで、アート好き以外の人にも来てもらって、でもにじんでくるアートや表現に出会ってもらうこと。もうひとつは、大阪で表現を仕事にしていく人たちを仲間として、一緒にがんばっていくこと。この2つのミッションは芸術振興に資するでしょう。喫茶店のふりを始めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在のココルームはゲストハウス。大阪在住の現代美術家・森村泰昌の作品が展示されているゲストルームも。1階のカフェはまちの人や旅人と交流できる。

 

「世のため、人のため」を掲げていたわけではなく。

—−喫茶店のふりをして、いろいろな人の訪れを待つんですね。

喫茶店にすると、けったいな雰囲気が伝わるのか、みんなポロっとしゃべるんです。聞いていると、若者たちが人間関係や仕事に就けないことに悩んでいることがわかりました。そこでココルームを、仕事の資料や情報があって、トークサロンやワークショップのプログラムもおこなう就労支援カフェにしたらどうだろうと思って、大阪市の若年層に向けた就労支援事業に応募しました。アートNPOには無理だろうと言われていたのが、見事に通って、3年間モデル事業「就労支援カフェ ココルーム」を行いました。
ほかには、ココルームを貸し切りで使ってくれた障がい者の方と出会って、彼らと一緒に表現活動に取り組み、街にでていく事業も行いました。彼らと一緒に舞台作品をつくり、路上に出てちんどんパフォーマンスをしました。
訓練されて洗練されたものだけが美しいわけじゃなくて、生きる事に切実に踏み込んでいる表現が私は好きです。

 

—−喫茶店を開いていて、出会った人のために何か…という感じなんですね。

気が小さいから、税金を使って自分の仕事を作るだけというのはまずいかなと思って(笑)。うっかり話してくれたことを聞いてしまったり、出会ってしまって、何かできるかな?ってひとつずつやってきました。人のために、というより、応答としての態度です。おおいに誤読もやってると思いますよ。それに、そうした人たちが表してくれる言葉や態度というのは本当に力強く、励まされるのは私の方です。

 

—−最初から社会のために、というのを掲げておられたわけではないというのが、意外でした。

行き当たりばったりですよ。でも行政と仕事をすることで、これまで考えてこなかったことに気づくことができました。公共・公益というのは機会を平等にするというより、排除せず関わり合うこと。時間をかけて人々が自律的に生きていくことが、結果として、社会全体を生きやすくするのではないか、と。一人一人が自分の生きることを深くとらえて生きていこうとすることによって、社会そのものが変わっていくのではと思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

フェスティバルゲート時代から続いている、〈まかないごはん〉。「みんなでごはん食べると、楽しいんですよね。元気になっていく感じもあって。」

 

関わる人を増やす、というセーフティネット。

—−拠点を釜ヶ崎に移されたのは?

2007年に新世界アーツパーク事業がなくなって、フェスティバルゲートを出ることになりました。離れたくなくていろいろプレゼンしたのですが叶わず、2008年に西成の釜ヶ崎に拠点を移しました。

 

—−なぜ釜ヶ崎だったのですか?

新世界のココルームの喫茶店を、釜ヶ崎で活動する医療団体などが打ち合わせによく使ってくれました。その人たちの話から、1969年に生まれた私に大きく関わっていた街だということがわかりました。万博だ橋だ道路だと、世の中が便利になっていくのを支えてきたのが、この街のおじさんたちだとわかってきて。いま自分の人生になにを感じているのか、聞いてみたいと思ったんです。聞いてなにができるかわからなかったけど、どうしても聞きたくて、まちに入っていきました。果敢にも釜ヶ崎の自転車屋で詩の朗読ライブをしたり、少しずつ関わりを持つようになった頃、雑誌『ビッグイシュー』が創刊されました。雑誌が1冊売れたらおじさんたちにお金が入るので、ココルームでイベントを企画して、それを告知するチラシに趣旨を書いて配ったら、アート業界の人たちも道端で見かけたときに買ってくれるかもしれないと思ったんです。それでずいぶん先にイベントを設定して、チラシを1万枚くらい配りました。

 

—−雑誌を知ってもらう、買ってもらうためのチラシだったんですね。

だからイベントの集客はどちらでもよかったのですが、蓋をあけるとたくさん人が来てくれました。ホームレスはタブー視されていたのに、チャンネルや切り口を変えるだけで、ホームレスに関心を持っているのことに驚きました。販売員のおじさんにも自分のことや想いを語ってもらったら、すごくよくて、みんなの胸を打ったんです。
それで2回目を企画するんですが、チャリティーみたいに賛同するアーティストを集めるのではなく、ホームレスの人自身がステージに上がらないかな、と思いました。

 

—−おじさんたち自身がステージに?

自分はホームレスであることを名乗って舞台に上がってパフォーマンスするって、とんでもないですよね(笑)。でも釜ヶ崎の街角でハーモニカを吹きながらリヤカーを押している人も見かけたことから確信をもっていました。こんなにたくさんの人がいるから、きっと誰かいるだろうと。そうしたら詩人やピアニストに出会いました。おじさんたちはステージに上がったり取材を受けたりするようになって、過去が知られて嫌な目にあうかもしれないけれど、その人に関わる人を増やすことは決して悪いことではないと思います。「自立は依存先を増やすこと」という名言があるのですが、いろいろな人と関わることで、社会の網目が生まれていくのだと思います。
それで釜ヶ崎とつながりが生まれたので、拠点を移す際に、ここを選びました。

 

 

 

 

 

 

 

「おじさんたちの話を聞いてみたい」という好奇心が抑えらなかった、と假奈代さん。関わったことで、自分たちにしかできない事業をさせてもらったと思う反面、「当たり前の苦労を思い知りました。」とも。

 

他者を思いやるというのは、とても幸せなこと。

—−釜ヶ崎のまちに根を下ろして、活動されていくことになるんですね。

釜ヶ崎に来てから、アート系の人はぜんぜん来てくれなくなりました。そこで、谷川俊太郎さんに手紙を書いたんです。そうしたら谷川さんから電話がかかってきて、「假奈代ちゃん、僕は言葉の力なんか信じてないの。だから僕、假奈代ちゃんにお金あげたい」って言われたんです。だから「谷川さん、お金もほしいけど、それより来てほしい。客寄せパンダになってください。谷川さんがここで1本詩を書いてくれたら、関心を持つ人が増えるかもしれないから」って。そしたら本当に来て、詩を書いてくださったんです。

 

—−「釜ヶ崎芸術大学」も、こちらに来てから?

まちを大学に見立て、狂言、俳句、書道などの講義やワークショップを行っています。場所は、炊き出しの会場や野宿の人の居場所、施設の談話室、デイサービスのロビーなど、おじさんたちが行き慣れているところですね。西成区が運営する「ひと花センター」でも、月8回の表現プログラムを作っています。

 

—−再びアート業界の方からも、人が来るようになったのではないですか?

こんな社会状況なので、アートの人たちもうちみたいな取り組みに興味を持ったように思います。福祉制度にあるアートは制度のお金がありますが、うちが関わっているおじさんたちは、いわば障がい者手帳をもっていない障がい者。制度からこぼれ落ちた人たちと一緒にやっているので、お金に困り、今も相変わらず変わりもの扱いですけどね。

 

—−一緒に活動されていて、おじさんたちは変わってこられましたか?

簡単に言うと、自己肯定感でしょうか。自分の人生に価値がないと思っている人が多いのですが、面白がってもらったり、笑ってもらったりすることで自己肯定感が高まるというのは言えると多います。おじさんがほかのおじさんを褒めたり、励ましたりしています。それもすごいこと。他者に想いを馳せていくってことは、とても幸福なことですよね。そういうことを重ねていくうちに、ひとりで生きているわけじゃないんだな、と感じてもらえるようになってきていると思います。でも、こんな優等生的なことばかり続くわけでもないです。現実はもっと混沌としています。
ただ、こう言うと、わたしたちの活動がおじさんたちをそうさせていると思われそうですが、そうではなくて、おじさんたちに魅了されているのはわたしの方です。

 

—−では最後に、これまでの経験は、ご自身の詩作にどのように生かされているのか、お聞かせください。

私はまだまだ、追いついていない感じのほうが強いです。ワークショップでは詩作をするので作品を作ってはいますが、まとまってはできていません。こうした経験を自分の詩作のなかで昇華したいと思いますが、今すぐは無理。時間が要りますね。でも全く焦っていなくて、今はこの時間と体験を味わいつつ、しっかりと感覚を研ぎ澄ませていれば良いと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

さまざまな樹木がおおらかに生い茂る野性的な庭。行き場をなくした植木鉢なども運び込まれる。近所の保育所の子どもたちが、畑体験に来ることも。